12番(西村文作?)

 ・昭和観音帳は、「長門國??郡萩町大字河添」と「西村文?」と判断した

  (現在でも住所の長門國??町大字河添」は読み取れるが、名前は読めない

 ・兄の西村礼作や文作と神富殖産・神野新田他との関係を示す情報は全く出てきてない

 ・西村文作だと都合の良い接点が出てくる山口県との関係(住所は萩の河添で間違いないはず)

  ・兄の礼作の長男と毛利祥久の娘が結婚している(時期は観音様から12年以上の明治40年代)

  ・神野新田完工式の明治29年に品川弥二郎が主賓、桑原為善が来賓として出席している

  ・昭和26年の農地解放6周年記念祝賀会に毛利祥久と桑原為善の孫が来賓として出席している

  西村文作が観音様を毛利の関係者の代理寄進したストーリーになるが、それは無理がある


▶ 2022.05、撮影と再確認実施(西村文作とは思えない)

 西村文作だと判断できないが西村文作とすると下記の疑問がある(上がなぞり分で、下が原画)

 ・1文字目は「西」の様には見える

 ・2文字目は「村」の右の「寸」の縦線が横線の上下でつながってない

 ・3文字目は「文」よりも「欠」や「次」に見える

 ・4文字目は「作」には見えず、上に「日」が付く漢字ではないか

 刻印の劣化を考慮しても、「西村文作」とは読めません


▶ 萩町河添(こうぞえ)の大正10年の拡大地図

 ・刻印の「河添」の下に「開?」らしき文字があり、地図の中央部やや左に「開作」という地名がある

 ・兄の礼作は観音様建立の当時は、萩より北東に直線で約15Km離れた現在の阿武町に住んでいた

 ・文作は分家したとあるが時期と住所は不明、兄の関係で萩に出た可能性はあるが、もっと町中にするのでは

 以上より、「河添開作」からは西村文作につながるものは出てこない


▶ 1865年の河添村の地図

 ・開作の場所の文字は読めず、奥開作に「毛利伊勢」が見えるが、毛利親彦で阿川毛利家(の第14代目

  ・江戸時代末期の河添村は武士の別荘などの屋敷があったのではないかと思う


▶ 2021年撮影分

台座の石が新しくなっている、元の石は観音様の裏に置いてある


▶ 萩の大正10年の地図のリンク